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winter's scarecrow

カテゴリ:my back pages( 27 )

Bridge over Troubled Water

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アメリカの小説 "ライ麦畑でつかまえて" の主人公のホールデンみたく、違う場所で生きたい思った。

大好きな父母、目いっぱいの想いを注いでくれていた。 3人の優しい兄たち、中学へ入ったら母親代わりの姉が嫁いでいった。
家出をする理由なんか少しもない・・・でも、このままではいけないと。

調布リトルに入ってプロ野球選手になりたかったが、そんな夢も儚く、日曜の早朝は父と一緒に TV の時事放談を見ていた。

TV ではベトナム戦争が泥沼化されている映像が映し出されている。 沢田教一という従軍カメラマンが撮った河を渡る老婆と娘の写真に心動かされた。

ボクもカメラマンになって戦地に行こうと決めた。 UPIやBBC に入社しよう。

初めて塾に行こうと思い、父母に内緒で代々木ゼミの冬季講習のパンフレットをもらいに行った。
その帰り、渋谷駅に着いて246沿いは大勢の機動隊と学生たちがぶつかりあっていた。

真っ直ぐ家に帰りたくなく、心の震えを抑えようとハチ公前の信号を渡るとき、街頭スピーカーからサイモン&ガーファンクルの ♪ 明日にかける橋 ♪ が高々と流れていた。

When you're weary felling small
When tears are in your eyes, I will dry them all.


信号待ちの横で帽子を被った素の渥美清さんがいた。 スタスタと速足に歩く渥美さんの姿がずっと心に残っていた。

今、ハチ公の交差点をそんな憧憬も忘れ歩いている。ヘッドホーンからは柴田淳の 缶ビール ♪(youtubeへ)が流れている。
by w-scarecrow | 2012-08-30 00:44 | my back pages | Comments(8)

雨に泣いてる・・・

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横浜元町から麦田トンネルを抜けると、そこはアメリカだった。
本牧にあった米軍居留地エリア1、エリア2。
きれいに刈られた芝生にカラフルなアメリカンハウス。 フェンスの向こうのアメリカ。

本牧埠頭の手前の小港界隈にはアメリカの田舎町を想わせるようなネオンチューブのBar が並んでいた。
プールバーの走りだというトロピカルな雰囲気の『アロハカフェ』、映画の撮影で二日間、閉店から開店までの時間を使わせてもらった。
根津甚八さんの履いていた私物のコンバースのハイカットの色が市販のクリーム色ではなく、薄くブルーがかったライトグレーに近い色で恰好よかった。
「新品のジーンズを買ってきたときに、コンバースと一緒に水に浸けておくとこんな色になるんだよ」と根津さんが教えてくれた。
もちろん私も根津さんと同じ色合いのコンバースを履くことにした。

エリア1の近くにステーキハウスがあった。 値段の表記はドル。 訊いてみると円でもOK 。
New York Cut Steak と T-Bone Steak, 響きの良さからN.Y.Cut 。
こんなに大きくて旨いステーキを食べたのは初めて。 それからも何度かこのフェンス横の店に通った。

横浜・山下町で中国、台湾を味わい、山手でヨーロッパを感じ、本牧でアメリカに浸った。

カラオケに行って、始めに歌うのは柳ジョージ & レイニーウッドの 青い瞳のステラ、1962 夏
横浜で生まれ育ち、フェンスの向こうのアメリカに憧れ、反目した彼らの時代。 

私たちの時代は、坂道をゆっくりと下っていく大国アメリカの姿を目の当たりにしてきた。
強いアメリカではなく、悩めるアメリカ、そんな混迷した時代の中でも底力があったアメリカン・カルチャー。

東京は朝から強い風に散らされた雨が降っている。
柳ジョージがロンドンで見た、雨に濡れた美しい樹々、その強い印象からレイニーウッドと名付けたらしい。
素敵な曲の数々をありがとうございました! weeping in the rain.
by w-scarecrow | 2011-10-15 10:23 | my back pages | Comments(8)

本の香り

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                                   奈良原一高・日比谷 1954

紙の匂いが好きだ。
中学へ入学した時に買ってもらった研究社の英和辞典。 薄~い紙が千数百ページもある。
日本で製本したのに、どこか外国の街の本屋さんの甘い匂いがした。 大人のおねえさんの匂いだったかも。

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街に THE BAND の音楽が流れ始めた時代、高校の授業が終わりアルバイト先の魚屋さんへ行く前に、渋谷西武百貨店にあった " ぱろうる " という、すごく小さな書店へ寄るのが愉しみだった。
詩歌の書籍の専門店。

未知の香り、ピンと張った空気感、本を開くと粗いクラフト紙に空間を少しだけ埋めるように活字がのっかっている。
物語が印字されているのではなく、作者の息遣いが載せられていた。

均一でない形や紙質、装丁、そんな本を開く愉しみ。 今でも書棚の和を壊すような本が好きだ。

最近、気になるのがアナウンサーやレポーターのよく使う「お疲れさまでした!」という言葉。 試合を終えたばかりの選手や被災地の町長さんにも誰にでも「お疲れさまでした!」という言葉を使う。

不確かだが「お疲れさま」というのは、目上の人が部下たちに使う言葉だった想う。
映画界でも監督が助監督に「お疲れさん」と声をかけることはあるが、助監督が監督に「お疲れさまでした」と言ったことはない。

今年もあと4ヵ月弱、今年こそは松茸ご飯と土瓶蒸しを食べるぞ! 
by w-scarecrow | 2011-09-09 21:44 | my back pages | Comments(10)

白線流し

どのくらい前のことだっただろう・・・この時期の学生街は大きなバックを持った受験生が不安げな様子で地図を見ながら、大学の場所を確認している姿をよく見かけた。
おさげの髪にダッフルコートを着てチェックのマフラーを巻いている女の子が多かった。 少し赤みを帯びたほっぺから白い息を手に吹きかけていた。

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サザンオールスターズの曲のなかでも♪ 希望の轍 ♪が好きだ。 この曲を聴くと飛騨川に沿って走る高山本線の雪景色がすぐに想い浮かんでくる。

三つ編みにダッフルコートがよく似合っていた子が10年後、飛騨の街のホテルのレストランでベーカリーを任され働いていた。
名古屋での仕事が終わり、そのまま高山本線に乗った。
久しぶりの再会、変わらぬ笑顔。 髪を後ろで結びいっぱしの職人の顔になっていたが、清々しい彼女の空気感はそのままだった。

今から19年前にフジテレビのドキュメンタリーで岐阜県立斐太高校の3年生の一年間を追った番組があった。
進学、就職への旅立ちに向けての彼らの悲喜こもごもが伝わってきた。
そして卒業式後の大正時代からつづく伝統行事の『白線流し』、学帽の白い紐と女子のセーラーのスカーフを一本に結び合わせ、雪の舞う大八賀川へ流す。
なんて素敵な行事なんだろうと思った。
彼らのうちの多くは都会の大学や会社へと故郷をあとにし、高山本線に乗る。
サザンの♪ 希望の轍 ♪が流れていた。 「夢を乗せて走る車道 明日への旅 通り過ぎる街の色 思い出の日々・・・」

その後、舞台を長野県松本へ移して、長瀬智也と酒井美紀共演のドラマ『白線流し』としてフジテレビで放映されていた。

ドラマのなかで受験生の酒井美紀はダッフルコートを着ていた。
バブルが弾けた後のあの時代の♪ 希望の轍 ♪だったような気がする。 
あまり見ることはなくなったが、おさげの髪にダッフルコートを着た女の子とすれ違うと想わず振り返ってしまう。
by w-scarecrow | 2011-01-28 20:14 | my back pages | Comments(18)

ちっちゃなビン

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鬱蒼とした木々の間から
やわらかなビームが射しこんでいる
スポットライトを向けられた落葉が一枚一枚
生きかえっているようだった















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風邪が抜けてきた文化の日、
梅干しと焼きたらこのおむすびをにぎって
近くの駒場公園へ。

お茶ではなく、牛乳瓶に入った牛乳を飲む。

同じ瓶でもヨーグルトの入った小さな瓶が大好きだった。
そのズングリムックリした不格好な小瓶を集めて
毎年行く海水浴場の砂を入れて飾っていた。
もちろん、砂を乾かしてから入れた。

夏休みに両親の里へ帰省する友だちにも頼んで
砂浜の砂を持って帰ってもらった。

家族と行った海水浴の想い出の砂、
行ったことのない北や西の地方の砂、

貝のカケラの混じった砂を見つめて
夢は日本中を駆け巡っていたのかもしれない。

また、集めてみようかな。 
でも、どうして男って軌跡を残そうとするんだろうか・・。 
by w-scarecrow | 2010-11-03 20:41 | my back pages | Comments(6)

カッコ閉じ

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部屋から見える
しゃくれたお月さん

『田毎(たごと)の月』
江戸時代から俳句に詠まれている情景

信州更科の棚田
上から眺めると 棚田の一段毎に 
黄金色のお月さんが水面に映っている

そんな月が見たい
水を張った棚田に映る三日月が見てみたい

永遠にカッコ『 ) 』は閉じない三日月

♪ 雨ふりお月さん 雲の蔭
 お嫁にゆくときゃ 誰とゆく
 一人で傘(からかさ) さしてゆく♪

雨の日、割烹着を着た母親が台所でいつも口づさんでいた唄
「そろそろ、ご飯だ」
私にとっては淋しげな唄ではなく、ご飯の唄だった
by w-scarecrow | 2010-10-25 20:06 | my back pages | Comments(4)

はじまりはいつも雨 ♪

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作家、平岩弓枝の生家である代々木八幡宮の大祭。
強い雨の中、傘をさした家族連れが多かった。 傘をさしながら夜店のイカ焼きを食べている子供たち。

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デパートの玩具売り場でも祭りの夜店でも「・・買って!買ってよ!」と泣きじゃくっている子供の姿は最近、見かけなくなったような気がする。
我慢をしているのか、我慢せずとも買い与えてもらっているのか。

厚労省の村木厚子元局長のしなやかな対応を見る度、想い出す子がいる。
母の大好きなムツの味噌漬けを学校帰りに買ってきてくれとよく頼まれた。
中学校からの通学路をちょっと遠回りをすると広尾商店街があり、そのなかにあった市場(広尾食品デパート)で買い物をすませた。

小学校から同じクラスだったY子が学校帰りにいつもこの市場で夕飯の買い物をしていた。
中学の制服姿にマジックバック(折りたたみのバック)から長ネギや大根が頭を出しているところを何度も見かけた。
Y子は弟と妹がいる4人姉弟、お父さんが若くして亡くなり、働くお母さんを長女である彼女が助けていた。
とっても同じ年とは想えないほど、しっかりした子だった。 
他の女子たちのスカートめくりをしては「wくん、最低!」と言われていた自分が情けなかった。

Y子の弟が私になついていたので、渋谷氷川神社の大祭に誘ってみた。
Y子の4人姉弟を引き連れての夜店巡り、焼きそばや綿アメ、サザエの壷焼き、弟や妹はジッと旨そうな食べ物を眺めているだけでゆっくりと通り過ぎる。
「w、なんだY子と出来てたんだ!」と擦れ違った同級生のヤジを無視して、石段をのぼり本殿でみんなで掌を合わせた。
「wくん、誘ってくれてありがと・・そろそろ帰んなきゃ」
「みんなで焼きそば食べようぜ。俺がおごるから・・」
「うううん、いっぱい楽しんだから・・」

Y子は学年で1,2番の成績、家事をしていつ勉強しているんだろうと不思議だった。
国立の女子大付属高校へ進学した。
きっと、素敵な働き者の母親になっているのだろうと想う。

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祭りが終わり、一気に秋になった。
by w-scarecrow | 2010-09-25 10:36 | my back pages | Comments(8)

太平洋のかかし

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'80年代のアメリカ、ウィスコンシン州ミルウォーキー。
住宅街にあるアパートからバスに乗って30分の距離にoriental food shopがあった。
ダウンタウンからも外れた閑散とした場所だった。
主に日本食が揃えてあった。 韓国人は北部の町にはまだ少なく、店には韓国産の唐辛子や缶詰めなど僅かな物が片隅に置いてあった。
1ヶ月に1度この店を訪れ、カレーのルー、味噌、納豆などを買っていった。
60代のおじさんは日系2世特有の日本語に広島弁イントネーションが混じっていた。

アメリカ北部、五大湖の近くの田舎町になぜ日系の人が? 
経緯は話そうとはしなかったが太平洋戦争中はワイオミングの日系人収容所に収容されたと話してくれた。

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その頃、『ノー・ノー・ボーイ』(晶文社)という日系2世ジョン・オカダが書いた小説を読んでいた。
戦中、戦後の日系人社会を描いた脚本を書きたく、日本人移民史、新藤兼人の実姉(広島の山間部からカリフォルニアに移住)を描いたノンフィクション、新田次郎の白虎隊の残党がカナダのバンクーバー島に渡り、漁業者となって生きている姿を描いた小説などを読み、触発されていた。

『ノー・ノー・ボーイ』は主人公のイチローが刑期を終え、終戦直後のシアトルの街へ戻ってきたところから始まる。
太平洋戦争が始まり、米西部沿岸州に住む日系人及びその家族は財産を没収されロッキー山脈の走る内陸部の各州に建てられた収容所へと送られた。
米政府はその収容所内で日系人に対してアメリカへの忠誠度を計るための面接をした。
「合衆国軍隊に進んで奉仕をする用意はあるか?」「日本国天皇やいかなる外国の政府に対しても忠誠を示さず服従もしないと誓えるか?」
この2つの要項に対し「ノー」と答えた日系人は不忠誠組とされ刑務所に送られた。

イチローのような不忠誠組とは違い、アメリカでの日系人のプレゼンスや家族を守るために志願して戦地に赴く者が当然いた。
ヨーロッパ戦線で勇敢な戦いぶりで功績を残した日系人442部隊は有名だが、それは数多くの犠牲者の上に成り立っている。

対日本軍の戦士として太平洋の島々や東南アジアに送られた、2つ母国の狭間に立った日系人の葛藤は計り知れない。
兄が日本兵として弟が米兵として戦ったケースも少なくない。

ノー・ノー・ボーイとして帰ってきたイチロー、同じ日系人からの軽蔑と憎悪の眼差しの中で戦後のアメリカを生きてゆく。
狂信的に神国日本を崇めてたわけでもなく、生まれ育った母国アメリカを否定したわけでもなかった。
自分が日系人であることとアメリカ国民であることの狭間に置かれたがゆえに「自分はいったい何者なのか」という自己のアイデンティティーの危機を抱えながらのイチローの戦後を綴っている。
  
         *      *      *      *      *      *      *      *    

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香港の許鞍華監督作品『客途秋恨』の撮影の詳細はこちらで書いています。
この映画は許鞍華(アン・ホイ)監督の自伝的作品。

アンの母親は一家が満州から引き揚げるさなか、甥が生死を彷徨う病魔におそわれた。
その時に真摯に日本人の引揚者たちに対応してくれた国民党軍の通訳の将校と出逢い、彼女の母はそのまま大陸へ残ることを決心する。

常に日本人である母に反発していた彼女は、日本という国と香港という母国の間に立つ、かかしだったかもしれない。
初めて訪れた母の生まれ育った別府の町、初めて聞いた父と母の出逢いの話、揺れ動いていた彼女のアイデンティティーの方向性を見つけた旅だったかもしれない。

撮影中も後も映画ではなく、実際のアン・ホイ自身のアイデンティティーについては訊くことはできなかった。

終戦から65年がたった。 今まで過去を語らなかった80歳を超えた老人たちが消し去りたい遠い日を語りはじめた。
生きていることに負い目感じてきた人も多かったかもしれない。 でも後世に残さねければいけないという使命感。 
消し去りたい過去は、明日への糧にしなければいけない。
語ることのできない声にも、そっと耳を澄まさなければいけない。
                                         ◆うちのベランダからの日暮れの風景です。 
by w-scarecrow | 2010-08-15 09:55 | my back pages | Comments(11)

叔母さん

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大好きな叔母さん、中学生のとき野球部のキャッチャーをやっていた私に、新兵器のキャッチャー・マスクを
新潟の西堀通りのスポーツ用品店で買ってくれた。
マスクの金具が細くて大きなマスク。感激だった!

小学生のときは叔母の編んでくれたセーターをいつも自慢げに着ていた。
新潟から送られてくる米や味噌や笹団子の荷物のなかに、リクエストをした二挺拳銃も入っていた。

亡父のすぐ下の妹、叔母は戦中、明治大学ラグビー部の名将北島忠治監督の家で間借りをして、奥さんの営む早稲田にあったお茶屋さんの手伝いをしていた。
そこで北島忠治監督の出身地・新潟の早稲田のラグビー部員の青年と知り合い学生結婚。

叔母の新婚の写真である。 出征=結婚。

叔母は新潟の教育者の家に嫁ぎ2人目の子を授かったときに旦那が交通事故で逝ってしまった。
昭和20年、終戦の年。
新潟に嫁いで3年目。 旦那が亡くなった後も嫁ぎ先から一歩も出ず、舅姑を見とって今も代々の家を守っている。
結婚生活はたったの3年間。

私の母は私のことを「おまえ」という、叔母は「あんた」という。
大学時代につきあっていた同級生が故郷の新潟の教員試験に受かり「帰るけど、いい?」「いいよ」と言った。

月に1回の新潟通いが半年間つづいた。
叔母はちゃんと状況を把握していて「あんたはあまのじゃくだから解らないと想うけど、女が里に帰るってこと、あんたは全く解ってないんだね・・」
と、シャキシャキの東京弁で訥々と言われた。

亡父が大陸へ出征するときに品川駅の軍用列車のプラットホームへ見送りに行けなかったことを今でも悔いている。
人生の殆どを新潟で過ごしているのだが、キップのいい東京弁が今でもほんと心地いい。
by w-scarecrow | 2010-06-11 03:02 | my back pages | Comments(8)

Blowin' in the Wind

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東京の街を出たいという願望がいつも心の片隅にある。
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中学生のときに澤田教一、一ノ瀬泰造という戦場のカメラマンを初めて知った。
ピューリツァー賞をとった澤田のベトナム戦争時、我が子を必死に抱いて河を渡る傷ついた母親の画、
『ライカでグットバイ』という書で有名になった一ノ瀬。
ベトナム戦争の末期、無政府状態の最も危険な地域だったカンボジア。
一ノ瀬がひと目見たかったアンコールワットを目指して、クメール・ルージュ支配下にあった無秩序地帯を突き進む。
澤田も一ノ瀬も安息の地を求めて日々、戦場で写真を撮っていた。
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澤田教一34歳、一ノ瀬泰造26歳、二人とも内線下のカンボジアで戦死した。
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そんな戦場カメラマンに憧れた。
彼らは戦場を撮っているのではなく、戦禍の人々の素描、子と母、戦士の不安、街の破壊・・この時代を生きている人の儚さを映しだしていた。
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カメラを持ち歩いていたのは10代までだった。
いつか澤田や一ノ瀬が想い抱いたように海外の通信社に入るのが夢だった。

この2年、デジタルカメラを買ってから東京の街の情景を撮りたくて少しづつ、カメラに収めている。10代以来のカメラ。
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自然が織りなす圧倒的な美しさの写真を見ても、あまり心を動かされることがない。
東京の喧騒のなかで生まれ育ったせいかは判らない。
美しい花があっても、風に揺れる川面があっても、紅いの富士山が輝いていても、いつもそこに人の小さな営みや匂いが感じられる写真に興味がゆく。
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東京を出てみたい、一度しかない人生、踏み出せばいいのに・・。
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いつも、いつも海の望める海辺の町で暮らすことを夢見ている。
映画『八月の鯨』の老姉妹が、いつか来たクジラの親子たちが再びやってくるのを待っているかのように、ここを離れられないのはなんなんだろう。
by w-scarecrow | 2010-03-24 23:21 | my back pages | Comments(10)