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winter's scarecrow

石垣りん

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『儀式』

母親は
白い割烹着の紐をうしろで結び
板敷きの台所におりて
流しの前に娘を連れてゆくがいい

洗い桶に
木の香りのする新しいまな板を渡し
鰹でも
鯛でも
鰈でも
よい
丸ごと一匹の姿をのせ
よく研いだ包丁をしっかり握りしめて
力を手もとに集め
頭をブスリと落とすことから
教えなければならない
その骨の手応えを
血のぬめりを
成長した女に伝えるのが母の役目だ
パッケージされた方々を材料と呼び
料理は愛情です
などとやさしく諭すまえに
長い間
私たちがどうやって生きてきたか
どうやってこれから生きてゆくか

石垣りん詩集より

石垣りん(1920~2004)さんは東京生まれ、14歳の時に日本興業銀行に事務員として採用され、定年まで勤める。
母の死後、4人の義母のもと3人の妹と2人の弟の生活を背負い詩作をつづけてきた。
茨木のり子さんと同じく、大正の女性たちは想像しがたいほどの貫かれた惑いのない意思を感じる。

小学校6年生のときの担任が50代中頃の女のF先生だった。
夏休みの読書の宿題が井伏鱒二の『黒い雨』だった。 私にとって初めての長編の小説。
2学期が始まり、先生の戦中や空襲の話を『黒い雨』をもとに戦争というものの酷さ聞かせてくれた。
私が「どう生きてゆくか?」という「?」の始まりがそのF先生との出会いから始まった。

中2から中3の9月まで新聞配達をしていた。 朝の4時前に専売所へゆき、暗い中、担当市域へゆく。
東京は木造やモルタル造りのアパートが密集しているところが多い。
小学校の時に仲のよかったM君とK君、いつも学年で1~3番までのトップクラスの成績を残していた2人。
M君は父子家庭で2人の弟がいた。 狭い木造のアパート、新聞受けに入れる時は既に電気が点いており、廊下に面した台所からの生活音がいつも聞こえた。 M君が起きて台所にいたに違いない。
K君はひとりっ子の母子家庭。 一部屋だけの古いアパートの一室。
運動は苦手で少年野球でいつもベンチウォーマーだったが休むこともなく来ていた。
M君やK君の部屋に新聞を入れる時にはいつも「がんばれよ・・」と心の中で呟いていた。
でも、2人とも修学旅行へは来ることはなかった。

兄貴たちも中学生のときからアルバイトをしていたので私も小遣い欲しさに新聞を配った。
裕福ではなかったが高校は私立へ進学してもよいと許しを得ていた。
M君は都立高校へゆき、その後就職をして名古屋で会社を営んでいると聞く、主だ。
K君は千葉にある全寮制の高校へゆき、30を迎える前に亡くなったと聞く。
将来の選択肢が限られていた成績優秀な2人、どんな選択でもできた自分。
明日は七夕、なんと短冊に書こう?
by w-scarecrow | 2009-07-06 20:17 |