winter's scarecrow

カテゴリ:music( 25 )

祭りのあとの淋しさは・・ 

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世田谷区にある北沢八幡宮の秋祭りへ。
近くに住むKさんとタコ焼きを食べ、ぬるい缶ビールを呑みながら
境内を往き交う人々を眺めていた。
陽が落ちるころになると、秋の風が心地よい。

秋祭りの頃になると想い出すことがある。
小田急線沿線のBarに一週間に一度、決まった時間に広いカウンターでひとりで呑んでいる子がいた。
30歳を少し過ぎた大きな目をした綺麗な女性。

昼間は事務の仕事をしていて、週に2度Jazzを歌っているらしい。
Live Houseではなく、どこかのお店で歌っていたみたいだ。
Nちゃんという名の子、沖縄民謡の一家に生まれたらしい。
彼女の歌う民謡を聴いたことがあるが見事だった。

沖縄返還後の幼い日、車の右側通行が夜の0時をもって左側通行に変わる日、歩道橋からその光景を眺めていたらしく、その話を昨日のことのように楽しく話していた。
米ドルから円に変わったときの戸惑いも。

それから話をする機会が多くなった。 
限られた時間を目一杯楽しんでいるようだった。
Nちゃんは友達を連れて私の部屋に、沖縄料理を作りにきた。
手際よく何品も料理がテーブルに並び、泡盛で会話も弾み、うちにある沖縄民謡のCDの『東崎』(あがりざち)をかけたら、急に時間が停まったかのように、Nちゃんの目から大粒の涙が流れだした。
沖縄の言葉で与那国島の情景を謳った曲である。

Nちゃんの住んでいるマンションは普通のOLの住める部屋ではなかった。
誰かの陰を感じたが、そんなことを話題にしても美味しい酒は呑めない。

それから、7,8ヵ月後、秋風が吹きはじめた日、
「もっと、みんなと早く知り合いたかった。私、生きてきたなかで、この一年間が一番楽しかった」
水泳の岩崎恭子ちゃんみたいなことを言いだした。
「沖縄に帰ることにしたんだ・・」と、また大粒の涙を流しはじめた。
「ちょっと待って、忘れられるのイヤだから」と、カウンター席の後ろに誰もいないのを確認して、
さっと、服を着たまま、していたブラジャーを取って誰にも見えないように私に渡した。
薄い水色のブラジャー。
身のまわりを整理できたのかは判らないが、彼女に陰は消えていたように感じた。

『東崎』、、歌詞の行間に彼女の生きてきた証しがいっぱい詰まっていたのかもしれない。
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宮古島出身の下地勇の"LIVE"のDVDを焼酎を呑みながら聴くことが多い。
オリジナル曲の殆どを宮古の言葉で歌うが、歌詞カードを見なくても泣けてくる。
歌う抑揚がBluesのそれに似ていて、いつの間にか南の島のゆるやかな時の流れに入り込んでいる。
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by w-scarecrow | 2009-09-08 19:54 | music | Comments(8)

Open to Love

いちばん好きな俳優はと訊かれたら、Sam Shepard(サム・シェパード)と答える。
『天国の日々』、『ライトスタッフ』、『カントリー』、『パリ・テキサス』では脚本で参加している。
アメリカの広い荒野が似合う俳優が少なくなってきた。 ストイックで孤独感を感じられる風貌、一途で無口。 
S.Shepardの演じるという余計なものを削ぎ落した存在感はすごい。  
テストパイロットたちの空の閉塞感、恐怖感、家で待つ家族の不安を描いた『ライトスタッフ』。
S.Shepardの父親は戦闘機のパイロットとしてイタリア戦線に従軍している。 母親は彼を連れアメリカ中の空軍基地を転々としていたらしい。 映画のなかの家族と彼の生い立ちが重なっている。 
Samは1963年、ケネディー暗殺の年、N.Y.でオフ・オフ・ブロードウェイの盛隆が高まり始めたころに有名なJazz ベーシストのCharles Mingusの息子のJr.(L.A.時代の幼馴染)を頼りにN.Y.へ降り立った。
"Village Gate"という名門Jazz ClubでMingus Jr.とともにボーイとして働くようになった。

同じころN.Y.でSamと同じ異端児のpianist,Paul Bleyも新しい活躍の場を求めていた。
jazz sceneもマンネリのハードバップからの変革のころ、SamとP.Bleyの接点がVillage Gateにある。
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Open to Love

Paul Bley (piano solo)


Recorded 1972.9.11 ECM RECORDS.



Paul Bley (ポール・ブレイ)
1932年、カナダのモントリーオール生まれ。
1953年、"Introducing Paul Bley"でCharles Mingus,Art Blekeyとのトリオ・アルバムでデビュー。

彼のアルバムはreleaseするたびに感じる風景が違うことが多い、出来不出来だったり選曲、構成、producerの違いによっても印象が変わってくる。
このアルバムが発表された'70年代、ECMのマンフレッド・アイヒャーとの出会い。 このころが一番安定した作品を送り出している。

研ぎ澄まされた一音一音の余韻、軟らかなメロディーラインに鋭く切りこんでくる強い波、耽美的な旋律。
春の朝に聴きたい piano soloである。

Sam Shepard著、"Motel Chronicles"で彼の大好きな叔母さんの口癖が書いてある。
「暑い日にはマヨネーズは毒だと、僕のおばさんが教えてくれた。
それから札入れを持たずに外出してはいけない。
事故にあったときに死体を確認できないからね」

私がアメリカで暮らすことになったとき、旅立つ日に玄関先で母が言った。
「お前、何か大事な忘れもんをしてないかい?
ほら、ハンコ! 向こうで郵便局や銀行に行ったときに困るだろ・・・」

母はその日のために、ちょっと高そうな実印を作ってくれていた。
「向こうでハンコは・・・」 返す言葉をのみ込んだ。 「ありがとう!」
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by w-scarecrow | 2009-04-26 14:07 | music | Comments(4)

忘れていないもの

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秦基博

正月のおせちに飽きてさて何を聴こう。
ウルフルズを聴いて「壊したろ」の気分になるか秦基博に行こうか。

『僕らをつないでいるもの』
二人が夜の閑散とした街を歩いている。
どこに行ったらいいんだろ俺たち。
幼い恋と知りながら ♪不安を塞ぐようにキスをするんだ。ゆれる雲が月を塞ぐ前に♪
歌詞の細かい描写が鮮明な映像として浮かんできます。

高校時代の初恋の子。細身に色黒のサーファー風の子だった。
「高校生は煙草を吸っては駄目」と吸っていたロング・ピースは取り上げられ彼女の机の引き出しがロング・ピースだらけだったらしい。
新宿番衆町の旅館街、いつもそこで別れる。
今はビジネスホテルになってるが、当時は木造の旅館。いつもそこで「じゃあね!」
そこが彼女の住んでいる家。旅館の娘。
どうしたらいいんだろ。毎回、毎回、旅館の前で「送ってくれてありがと!おやすみ!」

秦基博、New Releaseでも瑞々しい心情を歌っています。
元気になります。
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by w-scarecrow | 2009-01-05 00:20 | music | Comments(4)

中山うり

e0158857_23381148.jpg静岡に住む学生時代の友人から日本酒が送られてきた。
包みをほどくと大吟醸『おんな泣かせ』
身に憶えのない酒名である。
泣いたことは横浜Baystarsの負け数くらいはある。

お酒を送ってくれたS君、大学時代、台風の日も大雪の日もロンドンブーツを履いていた。
Rock青年は冬場は黒の皮ジャンできめていた。だけどやつらは真夏はいまいちイケない。
荻窪の4畳半の風呂なしのxx荘に住んでいた。
部屋の中央にGibsonのギター、その奥に静岡みかんと書かれたミカン箱。そんだけ。
銭湯に行く時もロンドンブーツ、下駄箱にも入らない。
今、S君はブーツを捨て地味目のスニーカーを履き、ピチピチのジーンズをGAPの綿パンにし、携帯はdocomo、紅茶はマリアージュ・フレールのマルコ・ポーロ(100g ¥2625)を飲んでいる。
ギター片手にロンドンのアビー・ロードへ行くのが青春時代の夢であった。でも最近は米倉涼子似の奥さんと[韓国エステ&グルメツアー]でブランド゙・ショップの袋を片手にソウルの東大門あたりをウロウロしてるらしい。

夕方、窓から見える富士山が赤く染まっていた。
胃はズキズキするが酒日和である。

中山うり
美容師をつづけながらLive活動をしている。

2年くらい前、FMから聴こえてきた、
『月とラクダの夢を見た』
聴いていたら砂漠が浮かんできた。それに小学生が描いたような真っ黄色な月が。

中山うりを聴いていると時にはブエノスアイレス、時には釧路の港、小さいころ読んだペルシャの町が描かれた絵本の風景、楽しく生き生きとした町の情景が浮かんでくる。

今晩は『おんな泣かせ』をちびちびと呑みながらペルシャを旅しよっと。

中山うりのNew Release『ケセラ』は来週、買おう。

CDのジャケットは自分で作ったのでヘナチョコです。iTunesから購入したEP2枚分を収めています。
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by w-scarecrow | 2008-12-06 19:03 | music | Comments(6)

Don Friedman

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Don Friedman / A Day in the City
D.Friedman(p) Chuck Israels(b) Joe Hunt(ds)
Recorded in June12,1961

ドン・フリードマン
1935年San Francisco生まれのjazzピアニスト。
Dexter Gordon,Shorty Rogers,Chet Bakerらと活動し、1958年、N.Y.C.へ進出。
この A Day in the Cityが彼のファースト・アルバムである。
’60年代初めのN.Y.C.の街を写したジャケット写真。
BLUE NOTEにはフランシス・ウルフという有名なカメラマンがMusicianの自然体の姿を切り取り少しの遊び心で見事なアルバムデザインをしていました。
BLUE NOTEの創始者であるアルフレッド・ライオンとはベルリン時代のレコードコレクター同士。コレクターだからこそjazzファンの満足できるジャケット作りをしてきたのだと想う。
このRiverside Recordsはオリン・キープニュースがBill Evans,Thelonious Monk,Wes Montgomeryらをメインとして製作してきたレーベルである。BLUE NOTEと違ってポートレイトのカラー写真のジャケットが多い。センスはあまりよくないレーベルです。
そのなかでA Day in the Cityの写真は印象的でした。

日本でD.Friedmanという名前が知られ始めたのは翌年の1962年に録音された『Circle Waltz』がきっかけである。ファーストアルバムの録音から二ヵ月後に録音された『Booker Little & Friends』に鬼才Reggie Warkman,Pete Larocaとの強力なリズム・セクションで参加していた方を憶えていたファンも多いはず。
マンネリ化したハード・バップから脱却するんだという想いが夭折した天才トランペッターBooker Littleと若き共演者からひしひしと感じられました。

jazz批評家たちのいう「ビル・エバンス派」「バド・パウエル派」の区分け、D.Friedmanに限ってものBill Evansとの対比ばかりを目にする。同じ時代N.Y.Cで活動していた白人のピアニストなら多かれ少なかれ影響は受ける。
この頃のD.Friedmanのアルバムを聴いていると時にBud Powellだったり、MonkだったりB.Evansだったりします。それがD.Friedmanなのである。

このジャケット写真は左側が少し黄ばんでしまっている。’70年代の終わりにBerkleyの古レコード屋で購入した。アメリカに行くというと「欲しいレコードリスト」を何人かの人から渡される。
探すのは大変でしたが旅費が浮くくらいの金額になるときもありました。
彼らはBLUE NOTEの1500番台のfirst pressだったらなんでもいいという。jazzファンというよりレコード盤ファンだったので。高く買ってくれました。
自分が欲しかったのはPacific Records『Russ Freeman Trio』の10inch盤。A day in the Cityと同じくジャケットがいいんです。
Don Friedmanは世紀の変わった今も昔と同じように瑞々しい旋律を奏でています。嬉しいですね。
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by w-scarecrow | 2008-11-15 16:15 | music | Comments(4)